【いつも蕎麦にいるよ】 六杯目 JR巣鴨駅『富士そば』

【いつも蕎麦にいるよ】 六杯目 JR巣鴨駅『富士そば』

【登場人物】
伊藤由香里(64)専業主婦

【登場そば屋】
JR巣鴨駅ロータリー『富士そば』
もりそば ¥300-

自分の母親なのだから……。
何度もそう自分に言い聞かせてきた。
母が寝たきりになって、もう8年が過ぎようとしていた。
食事の世話に、下の世話……いつまで続くかわからない、奴隷のような日々。
夫は定年後に再就職をして、稼いできてくれるのだが自分の親ではないし、関わろうとはしない。
息子と娘はそれぞれ家庭を持って暮らしている。
たまに孫を連れて来てくれるのだけが、唯一の楽しみだった。
いっそ早く逝ってくれれば……と、頭によぎるたびに、自分が嫌になる。

今日のご飯は何にしよう……。
母が食べられるメニューを優先して考える献立。
プルルルルルル……プルルルルルル……。
冷蔵庫の中を見ながら思慮していると、久しく鳴らない電話が鳴った。
「もしもし……」
どうせ営業か何かだろう。
ぶっきらぼうに電話に出る。
「こちら健康長寿医療センターですが……」
その言葉を聞いて、私の中に光が差した。
ずっと予約待ちをしていた緩和ケア病棟からの電話だった。

母は無事に入院することができた。
毎日病院には通わないといけないが、これからは食事や下の世話の心配をすることはない。
今までより人間らしく暮らせるかもしれない。
私に繋がれていた足枷が、外れた思いだった。
病院のある板橋区役所前駅から都営三田線の電車に乗る。
窓に映る自分はすっかり老け込んでいた。
ますます母に似てきたな。
そう思ったら、一抹の不安がよぎった。
もし私が要介護になってしまったら、どうなってしまうのだろうか……?
子どもたちに私と同じような思いはさせたくない……。
その思いは母も一緒だったのではないだろうか?
それなのに私は母を入院させて安心している。
ひどい娘なのかもしれない……。
そんなことを考えながら巣鴨駅の階段を上っていたら、出る場所を間違えてしまった。
JRに乗り換えるのに、ロータリーの真ん中に出てしまった。
目の前にそば屋さんがあった。


『富士そば』。
色んな駅で見かけるが入ったことはなかった。
どこにでもあるそば屋という印象なのだが、今日はなぜか気になった。
ふと食品サンプルを覗いてみる。
美味しそうな食品サンプルを見ていると、急にお腹が空いてきた。
そういえば、空腹を感じることすら最近はなかったように思う。
それほどまでに心の余裕がなかったのだろう。
純粋に食べたいと感じた自分が嬉しくて、そのそば屋さんに入ってみることにした。

券売機にお金を入れる。
どのメニューにも『そば・うどん』と書かれている。
そばを食べたい場合はどこを押せばいいのだろう……。
戸惑っていると、後ろに並んでいた息子くらいの年齢の男の人が声を掛けてくれた。
「どれを買いたいんですか?」
「おそばが食べたいんですが、うどんと同じボタンで……」
「食券を渡す時に、おそばって言えば大丈夫ですよ」
「そうなんですね……ありがとうございます」
待たせるのも悪いと思って、あまり考えずに『もり そば・うどん』の食券を購入した。
店内に入る。
思ったよりも小奇麗な店内で、女性客もいて少しホッとする。
『注文口』と書かれたカウンターに行き、食券を渡す。
「おそばでお願いします……」
恐る恐る告げる。
「はい。もりそば一丁!」
笑顔で受け取ってもらえて一安心。
すぐにもりそばが出てきた。


艶のあるそばがキラキラとしていた。
「いただきます……」
小さく自分につぶやいて、そばを啜る。
つゆの塩気が舌から脳に伝わる。
久しぶりの味のある食事……。
疲れた体にツルッとそばが滑り込んでいく。
美味しい……そう感じる自分が嬉しかった。
食べ終わるころに、食券を買う時に声を掛けてくれた男の人が話しかけてきた。
「お婆さん、このそば湯も飲んで大丈夫ですよ」
卓上ポットを指して、そう教えてくれた。
知らない人からもお婆さんと呼ばれる歳になったのか……そう思ったら可笑しくなった。
私はもう、食券の買い方がわからなくても仕方がない年齢なのか。
これからは素直にわからないことは教えてもらおう。
「ありがとう」
笑顔で答えて、ポットのそば湯をそば猪口に注ぐ。
白い湯気が立ち上がる。
そば湯を飲むと温かかった。
ココロとカラダが温かくなった。

店を出ると、夕日がロータリーを照らしていた。
お爺さん、お婆さんたちが元気に街を歩いていた。
これから私がどうなるのかはわからない。
でも、美味しい食事をして、なるべく健康に生きよう。
ピンピンコロリを目指して、健康的に生きてみよう。
明日もまた病院へと通う。
母のお見舞いをして、帰りにはまた『富士そば』に寄ってみようかしら。
そんなことを考えながら、私はJRの巣鴨駅へと向かった……。

<終>

JR巣鴨駅ロータリー『富士そば』


駅前立ち食いそばの雄!
とりあえず駅前をふらつけば目につく安心感!
巣鴨駅の『富士そば』は広々として綺麗な店内。
入りやすいからか、年配の方や女性客も多い。
そば湯のポットも置いてあるのが嬉しい!

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